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入学式で思ったこと全体に公開
2011年04月07日12:07
子供の中学校の入学式に出てみた。
学校の式典に出るのは何度目かだが、いつも思うことがある。
それは、学校という社会は、一般社会と隔絶された特別なものであるということ。

保護者列席のあとまず行われたのが、在校生向けの入学式の練習。
練習を保護者を座らせてから実施する意味がどれだけあるのだろうか。
また、その後トイレ休憩、来賓入場など、無駄な時間が過ぎる。
「時間になりました」と言って場を静かにさせてから「まだ少し時間があるのでそのままお待ちください」と言ってみたりする。
ここで共通しているのは、時間に対する感覚が、会社に勤めているような人と異なること。

一方で、新入生の名簿は、文字の位置合わせがバラバラだったり、姓と名の間にスペースがあったり無かったり、新入生の名前を読み間違えたり、どうでもいいことも含めて事務的なミスが多い。

ソフトウェアの業界(ものづくりは全部?)では、QCDという言葉がよく使われる。Quality, Cost, Deliveryの略で、品質、費用、納期を意味する。限られた納期で、限られた費用を使って、最高の品質を出すため、様々な工夫が行われる。おそらくこれは、経済活動を行う団体・個人に於いてはどこも同じだろう。
費用の大部分を占めるのは人件費。要員の時間をどれだけ無駄にしないかで、Costが大きく左右される。

ところが、学校には「時間(D)」と「要員(C)」は無尽蔵にあるという意識があるように思えてならない。では品質(Q)が良いのかというと、そうでもない。
仕事を休んで入学式に参加してみれば、時代錯誤の軍隊のような入学式練習を延々と見学させられる。一番間違えてはいけないはずの新入生の名前を間違えて呼ばれる(うちの子ではなかったが)。
効率的に時間を使うことができず、事務処理でも間違いが多い。

こういうところから感じるものは、どこの会社にもいる典型的な「仕事のできないひと」だ。会社では、短時間で多くの仕事を正確にこなせる人が「仕事のできる」人。学校で感じるものはその対極にある。

昔は、父親は仕事だけをし、学校のことは母親に任せておけば良かった。母親は社会経験が少なく、学校の先生を信頼していれば良かった。そもそも社会的にも今ほど効率追求ではなかった。
だが、現代は良くも悪くも効率が重視され、父親も学校行事に参加し、母親も仕事に出るようになった。社会の目から見られるようになった学校が、社会とずれている事が明らかになってしまったのだ。社会は否応なしに変化していく。であれば学校も否応なしに変化しなければならない。だが、学校と社会との接点が無いため、変化する動機が無い。

もしかしたら、教育とは本来効率とは無縁なものなのかもしれない。だが、限られた時間で決められた教育要綱をなるべく高品質に教える場であるわけだから、基本的には経済活動と共通する部分があるだろうし、それが社会の要求でもあるだろう。

おかしいと思ったのは私だけではないようで、他の親からも「ふりがな振っとけよー」とか「それが普通になっちゃってヘンだと思わないのね」「私絶対おかしいと思うの」などという会話が聞こえていた。

生徒の親から尊敬されない先生の立場は確かに辛いだろう。
教員のうつ病が問題になったりしているが、こういう問題を改善していかないことには、教員個人の能力や学校単位の取り組みでは限界があるだろう。
教育改革をしようにも、役所もQCD関係ないから、もしかしたら誰にもできないのかもしれない・・・。

なんてことを、延々と続く祝辞を聞きながら思いましたとさ。

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